本来、士農工商とは
中国の
春秋戦国時代(
諸子百家)における民の分類法で例えば『
管子』には「
士農工商四民、国の礎」と記されている。
士とは支配階層であり、他の三民は被支配階層である。『
荀子』や『
春秋穀梁伝』のように「士商工農」とするものもあるが、中国では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」が重視されてきた。商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると考えたのである。これを理論化したのが、
孔子の
儒教である。しかし、日本では儒教の思想よりも礼節の面が受け入れられ、
江戸幕府では道徳的実践を重んじる
朱子学が「官学」と定められた。なお、
慶長8年(
1603年)に
イエズス会の
宣教師が出版した『
日葡辞書』と呼ばれる辞典には「士農工商」の項目が収録されている。このころまでに「士」が武士を意味していたことがわかる。
こうした
兵農分離政策は江戸時代に強化され身分の移動は少なくなった。また、儒教では商工業に携わることは利益を追求し欲望を生み出して人間を堕落の方向に向かわせると考えられ、本来の人間があるべき姿に反するとして否定的に捉えられていた。しかし、実際には
貨幣経済や産業の発達により商人が経済の主導権を握るようになり、
大名貸のように武士が商人に依存するようになった。このため商人に扶持米や士分など武士身分並の待遇が与えられることもあった。
上記のように士農工商の概念と実際の身分制度は大きく異なっている。江戸時代の諸制度に実際に現れる身分は、武士を上位にし、その下に「百姓」と「町人」を並べるものであった。この制度では、百姓を村単位で、町人を町単位で把握し、両者の間に上下関係はなかった。また、町人の職業が「工」か「商」かを制度的に区別することはなく、商人を職人より冷遇する制度もなかった。そして百姓の生業も農業に限られるものではなく、百姓身分で「商」や「工」に属するはずの海運業や手工業などによって財を成した者も多くいた。
天保の改革最中の
天保13年(
1842年)9月の御触書には「百姓の余技として、町人の商売を始めてはならない」という文があり、併せて農村出身の奉公人の給金に制限を設けているが、これはこうした風潮が農業の衰退に繋がる事を危惧した幕府の対応策であったと考えられる。つまり、現在でいう百姓とは農業専従者で「農人」として分類される存在であるが、江戸時代では範囲の異なる言葉であったのである。さらにいえば、厳密な百姓身分、町人身分とされたのは家の筆頭者だけであり、それ以外に村内、町内には細かな身分構造が存在していた。また「町人」と「商人」は異なる身分とみなされていたとする実証的研究もあり、実際の江戸時代の身分制度はかなり錯綜した複雑な構造を持っていたようである。そもそも、士農工商に含まれない身分、(
公家・
僧侶・神主・
検校・
役者、
穢多など)も相当数おり、これらも公認の身分を保持していた。現実の江戸時代の身分制度は未解明な部分が多く、今後の実証的な研究が待たれる面が大きい。