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「JR羽越本線脱線事故」||うた-LINK.com (05/26update)

JR羽越本線脱線事故 wikipedia|無料辞書

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|line = 羽越本線
|operator = JR東日本
|type = 列車脱線事故
|cause =
|trains = 1台(6両編成)
|pax =

▲上へ / ▼下へ

|deaths = 5人
|injuries = 32人
|damage =
-->JR羽越本線脱線事故(ジェイアールうえつほんせんだっせんじこ)は、2005年(平成17年)12月25日羽越本線北余目駅砂越駅間で発生した列車脱線事故である。

◆ 事故概要
2005年(平成17年)12月25日19時14分頃、山形県庄内町榎木のJR羽越本線北余目駅砂越駅間の第2最上川橋梁付近において、秋田新潟行きの上り特急「いなほ14号」(列車番号:2014M-485系3000番台6両編成・新潟車両センター所属R24編成)が、橋梁通過直後に最も軽量であった2両目から脱線を始めて最終的に全車両が脱線、うち3両が転覆し、先頭車両が線路脇の養豚場(養豚・山形和牛肥育畜舎)共同団地内養豚の堆肥舎に激突し大破した。脱線時の運転速度は、運転士の証言等から約100km/hと見られている。
この事故により先頭車両に乗っていた5人が死亡、32人が重軽傷を負った。なお、乗客の目撃情報から秋田県内在住の母子2名が車内に閉じ込められたままだと報道されていたが、その母子はすでに事故発生現場よりも70km以上手前の羽後本荘駅で下車しており、無事だったことが数日後に判明している。
事故の発生した2005年12月の山形県庄内地方では例年と比べても激しい吹雪が続いていたが、事故当時は暴風雪・波浪警報こそ発令されていた()ものの、前線を伴った温帯低気圧の暖域に入っており「横なぐりの雨」が降っていた。事故の直接の原因は突風だとされ(現場周辺住民からも「今まで体験したことがないようなものだった」との証言が出ている)、周辺の防砂林のクロマツが倒れていることや目撃情報などから、原因は局地的に発生したダウンバーストあるいは竜巻に煽られ転覆した可能性があるといわれた。
事故当日、最上川河口南方から事故現場までの一直線上で、ビニールハウスの倒壊や、国道7号沿いの防雪柵に取り付けられていた重さ105kgの鉄板が飛ばされコンビニエンスストアの軒を破壊するなどの大きな被害が発生していたことが確認されている。事故から2年後の2007年12月21日、山形県庄内警察署に置かれていた同事故捜査本部は委嘱専門機関の鑑定結果として、突風の原因を『竜巻と見られる』と発表している。
事故後、山形県警察東京都内の大学研究室に依頼した風洞実験の結果、当該列車は風速40m以上の突風に襲われたと推定される。しかし、事故当日の気象庁酒田測候所が観測した最大瞬間風速は21.6m、現場近くのJRが設置した風速計の数値も20m程度と、極狭い範囲を移動した突風に対して、管理側で異常を検知することは出来なかった。

◆ 事故の背景と責任
事故の原因については航空・鉄道事故調査委員会によって調査が続けられ、2008年4月2日に正式な見解が発表された。脱線原因として瞬間風速40メートル程度の局所的な突風で車両が傾いたと結論づけた。そして、予見はほぼ不可能であり、事故は避けられなかったものとした。そして、今後の対策として気象庁や鉄道事業者や行政等の連携や観測網の強化などで実効性のある対策が必要との所見を述べた事故報告書は、[外部リンク] 航空鉄道事故調査委員会(国土交通省HP)>鉄道事故調査インフォメーション>鉄道事故調査報告書 から検索可能。
このほかに当時の状況や関係者の証言などから、以下の点について議論されている。

◇ 運転士の過失の有無
この列車には、運転士(当時29歳)と車掌(当時26歳)の2名が乗務していた。事故発生当日、事故列車は秋田駅発車の時点で1時間1分の遅延を生じていたが、途中風の強い区間では運転指令員の指示に従い25km/hで進行するなど、安全確保のための措置をとっていた。その結果、事故直前の酒田駅発車時点では1時間8分の遅れを生じていた。事故発生時も、運転士は自らの判断により通常120km/hで走行するところを、100〜105km/hに減速して運転していたことが、事故後の調査で判明している。無理な定時運転や回復運転の敢行など、安全性を無視した無謀運転を行った形跡はなかった。
事故発生後、運転士はすぐさま列車無線新潟支社輸送指令に脱線事故の発生と救助の要請を行い、車掌と2人で消防の到着まで救助作業を行った。消防隊員が到着した時、重傷を負いながらも「私より先にお客様の救助をお願いします」と言って、救助作業を続けたという。